別に嘘でもいいんだけど
気になる人物がいるとする。
それは好きだとか、好かれたいとか、自分のものにしたいとか、そういう次元ではなく…同じ時間を共有することが幸福で、人として尊敬に値するような、共に成長出来る、そういった人物。
今まで誰かに頼ることを極力してこなかった自分にとって、そういう人物は新鮮であり、心を惹きつけて離さない。
だが、決められた道がある。
婚約者と言われた相手には尊敬も期待も、ましてや愛などありもしなかった。
ただ、それ以外の道など私には考えたことがなかった。何よりも大事なのはグループで、全て円満に、順調に進めるためには自分が嫁ぐのが当たり前だと、そう思っていた。
それなのに、彼が…いや、彼のせいだけではない、でも
桐条など初めて棄ててしまいたいと、それこそ「どうでもいい」と、一瞬でも過ぎってしまった。あの、刹那。
今の私には、どうすればいいか分からない。こんなこと、初めてなのだから。
「…はぁ」
か細く漏れた溜息は震えていて、情けなかった。目頭を押さえて、頭を落とす。経験したことのない疲れは、疲れと認識されずにただ、酷く苦しかった。
「 ?桐条先輩…?」
閉じた視界の闇がさらに濃くなった気配。顔を上げると伊織が多少困惑した表情をして見下ろしていた。今帰ったのか、全く気付かなかった。
「…あ、大丈夫スか?気分悪いとか…」
「いや、心配ない。ありがとう」
俯いていたのを心配したのだろう。大丈夫だという旨を告げると、途端に顔を綻ばせた。こちらもつられるほどの愛嬌で。
彼はいい。いつも感情を目一杯表せることが出来ている。まるで悩みなんて持ち合わせていないかのよう …と、それは失礼か。
「 …羨ましいな」
「え?何がっスか?」
「…君が」
そう、彼は愛していた者のことを少しも包み隠しはしなかった。この私でさえも気付くほどに、言葉で、顔で、行動で、その指先のひとつひとつまで…彼の全てで愛情を示していた。
それが羨ましい。少なくとも私には出来ない芸当だ。性格か、プライドか、経験か、立場か。何かがストッパーをかける。
… !いや、別に私の場合気になっている相手なだけであって…、…あ、愛していた者、などと…
…まぁ、何にも代えられない大切な人であるのには…変わりないが…
「何か悩み事、っスか?」
「まぁ、そんなところだ」
「ふぅん…、あ、じゃあ…これでもドーゾ!」
提げていたビニールの袋を漁ると、何か箱のようなものを取り出した。首を傾げる私に、何か唸り声を上げながら祈るようなポーズをとると、ニコリと笑い、それを手渡してきた。
「…?」
「チョコっスよ。脳とか疲れには糖分取るといいって言うっスから」
「…あ、ああ…貰っていいのか」
「いいっスよー。先輩の口に合うもんじゃないかもっスけど…こんなのでよければ!」
いつもの惜しみない笑顔を作る彼に、ありがとうと零すと、益々彼は笑みを輝かせた。
…太陽のようだな、そう思った。彼には場を温かに照らす力がある。それはペルソナの力ゆえ…なのか、天性のものなのか。
そう、だから、彼女も…
「ンじゃあー、元気出してくださいね」
「…あ、伊織。さっきの渡す前の祈るような仕草は何だったんだ?」
足を進ませた伊織に、思い出したように先程の謎の仕草の意味を尋ねると、一瞬目を開き、困ったように苦笑いをしてみせた。
「え…、あー…まじないっスよ。先輩の悩みが解決しますよーに、とか…なんちゃって…ハハ」
「まじ…ない?」
「ああ、だから本気にしないで下さいよ!冗談っス!」
自分のしたことに、今更ながら照れたのだろうか。顔を微かに朱に染めながら慌ててラウンジを去ってしまった。
…まじない、か。
握らされた箱詰めのチョコレートを見つめると、彼の幼稚とも言える行動に思わず笑みが漏れてしまう。まるで深く考えるだけ時間の無駄だと、そんな気になってしまうほどに。本当はもっと、もっと単純なところに答えがあるのかもしれない。
「…別に嘘でもいいんだがな」
悩みが取れるなんて…そんな素敵なこと。いや、その気持ちだけで。
取り出したチョコレートをひとつ口に放り込む。菓子職人に作らせたそれとは違って、カカオの味が砂糖で誤魔化されている、そんな味。でも。
まじないのかかった甘い甘いチョコレートは舌で溶けるのと同じく、悩みまで溶かしてしまうような気がした。
…そうだな。
明日…また彼に例の、ラーメン、にでも連れて行ってもらおう。考えるのはそれからだ。
fin. 2008/06/12