瞳に映る狂気B
深く暗い海の中でもがいていた、ずっとそんな気分だった。目の前が見えず、呼吸も出来ないほど苦痛で、縋るものさえ見つからなかった。
何故こんなことになっているのかと、必死に上を目指した。早く、助かりたい、と。
「… っ!」
途端、目の前の視界が開けた。悪夢から覚めたような、酔いが醒めたような、何故かそんな心境になっていた。
俺は何をしていた…?
いつもの練習場の匂い、その中に栗の花のような匂いが鼻をついて、そこでようやく視線を下方に落とした。
「っ !!?」
何だ、これは…?
倒れている順平。その首には縄跳びが絡まっていて、顔や身体には殴ったような痣と、それとは違う痣。服は乱暴に引き裂いたように布が破れている。そして、床には血と白濁した液。
俺は…俺は…俺は…!?
顔を手で覆おうとすれば、その革手袋も汚れて濡れていて…順平の泣きじゃくり嫌がる顔、必死に抵抗している姿。見たかった…乱れる姿。それが一瞬フラッシュバックした。
心臓が激しく脈打ち、酷く痛む。錯乱する頭を掻き毟って抱え込んだ。
一番…最悪なことを、した。
…とにかく、自分が酷い仕打ちをしてしまったことはもう戻せない。まずは順平を何とかしてやらないと…
暫くして、何とか少し正気を取り戻してきたところで顔を緩々と上げて、倒れている順平の顔を覗き込む。しかし、いつもの健康的な色は無く、青い顔をしてぐったりと倒れたままピクリとも動かない。
心臓がバクンと打って、血の気が引いていく。まさかそんな、そう思っても、首に絡まったままの縄跳びが今ある現実を突き付けていた。
自分はあの時…、順平を酷く乱暴に扱って、最後は首を絞めつつ…果てた。
首を、絞めつつ…!?
まさか。
「…順、平…?」
震える手で躊躇いながらも順平の頬に触れる。しかしその頬は、冷たい。
慌てて喉に指を当て脈を確かめる。
トクン
「っ…ハァ…、生きて、る…」
縄を首から外し、気絶している順平を抱きかかえる。
涙が零れそうになった。違う。違うんだ…こんな目に遭わせるつもりじゃなかった。
あの時、お前に気持ちを伝えるつもりだったんだ。気持ちといっても、自分でもしっかりとした形は無くて、ただ後輩としてじゃなく、仲間としてでもなく、それを超越した好きだと、とにかく言いたかった。どうすればいいか分からない重みを分けたかっただけかもしれない。
もちろん、すんなりとこんなことを理解してくれはしないとは思っていたし、自分でも言葉に上手く出来ないものの返事をすぐにとは期待していなかった。
だけど…
"気持ち悪ィ"
打ちのめされた気がした。
否定の言葉ばかり先に並べられて、自分自身が否定されているような気持ちになった。
予想していたくせに、実際に完全な拒絶を示されて大きなショックを受けた。次には酷い眩暈、そうあれは眩暈だ。気分が悪くなり、ぐるりと視界が歪むと目の前がチカチカとして耐えられなくて…
気がついたら手が出ていた。苦悶の表情で自分にもたれ掛かってきた順平を見ると、純粋な気持ちなんて消えていた。いや、もう理性そのものがなくなっていた。
それで練習場に連れ込んで、後は
本当はどこかで期待していたのかもしれない。
理性ではありえないとしながらも、本能的に順平ならば、と。いつも愛らしい笑顔を見せてくれて、誰よりも俺を慕って懐いてくれていた気がして。純粋で真っ直ぐな順平なら、もしかしたら受け入れてくれるんじゃないかと。
だからどんな目に遭わせても俺を受け入れなくて、拒絶して、否定されればされるほど…逆上して壊したくなった。
無理やり快楽を与えてやればそれに溺れて、俺を欲しがるんじゃないかと思った。痛がるのを無視して俺を挿れれば、悲痛な声を上げた中に甘さが混ざっているのを聞いて思わず嬉しくなった。
何故こんなことをするのかと聞いてくる。裏切られたというような表情に一瞬罪悪感がよぎったが、今更なんて言うんだと、強がって見せることしかできなかった。
快楽を認めたら終わりにする、終わりにしてやる。本当に縋ってくれたなら優しくする事だって出来た。
だが…どうしても、認めることはしてくれなかった。
"認めたく…ねぇ…"
どんなにしても拒絶される。理性を削いでやっても本能ですら拒絶される。だから…もどかし過ぎて順平の中を滅茶苦茶にしながら無意識に縄跳びを掴んで絞めていた。
何をしてるんだ俺は…
こんなことをしたら完全に仲が壊れる、それぐらい痛い程に分かっているのに。…それでも、俺はこいつの身体だけでも欲しかったのか…?
違う。そうじゃない。俺は"順平"が欲しかったんだ。
「…、…ッぅ…」
「!!」
順平の瞼が震えて身動ぎすると、その瞼がゆっくりと持ち上げられた。
「……ぁ、… っ!?なっ…」
緩々と顔を上げ、その瞳に映される。途端、俺が抱きしめていることを認識すると怯えたように暴れだされた。
「…っふざけ…!触ん…、…な…え…?な、なんで、アンタが泣いてんスか…」
言われて初めて気が付いた。溜めていた涙は溢れてしまっていて、流した雫は順平を濡らしていた。後悔か、自分への憤りか、理解出来ない涙は自分の意思で止めることが出来なかった。
「…っ…」
「も…何だよ…何なんだよ…っ、アンタが襲ったんだろッ!無理矢理…ッ、アンタが…、ッ」
「…順…平…」
「っ…、訳、分かんねぇ……、とにかく…離して下さいよ…っ」
離そうと肩を押されるが、離せない、どうしても。自分が何もかも悪いのは分かっている。だが離せば…全て、終わってしまう。本当は手を出した瞬間にはもう終わっていたも同然だが、往生際悪く自分の手は順平を掴んで離さなかった。
「ンだよッその顔ッ…!…クソっ…、本当に…最低っスね…、ンな顔…卑怯だろ…」
「…、…」
「…ハァ、…ったく…拍子抜けだっつーの…、さっきみたいな態度だったら殴れたのに…」
「…、……順平、…俺は…っ、…」
「…何で。何でこんなことしたんスか…」
睨み付けられて、静かに怒った声色で聞かれる。
今更お前が欲しかったなんて、言えるわけが無い。真っ直ぐに自分を見てくるそのその腫れた顔を殴ったのは、自分だ。首に付けた痕も、破いた服も、中を汚したのも、自分だ。
「俺、は…、…っ、本当に…悪、かった…」
「…っ答えになってねぇよッ!!」
「っ…、こんなことを…するつもりじゃなかった……俺、は…お前が…順平が…、…っ」
情けない、言うのが怖い。声が震える。この先は…俺には言う資格がない。
順平は一瞬も目を逸らさない。言わないことは許さないと真っ直ぐ見続けられる。捕らえているのは自分なのに、逆に捕らえられているような、言わなければ解放させてもらえないような気分だった。
…言ってしまっていいのか。余計に順平を困らせるだじゃないのか。
いや、違うか…。何を怖がっているんだ。俺は最悪なことをした。これ以上怖がることがあるのか…?
「俺は…、…俺は、順平が…欲しかった…」
「!…、何…欲しかったって…身体を?」
「違う!順平自身が欲しかった…!…、男に興味があるわけじゃないんだ…、だが…お前だけは別で…いつからかは分からない。気付いたら、お前が他人と笑って話すのが嫌だった。誰かに触れられるのも嫌だった。俺以外にお前を奪われたくなかった…」
話を切り出したら思っていることが口から出て止まらなかった。酷く勝手なことを言っている…順平の目はもう見れない。きっと、順平の瞳に映る自分はとんでもなく情けない顔をしているんだろう。
「 …、…馬鹿じゃねぇの…」
呆れた声色と同時に、胸倉を荒々しく掴まれる。
「…っだからって、こんな事していい事にはなんねぇだろッ!!」
「っ…!」
「こんな事していいわけ…ないっしょ…っ」
今にも泣きそうな顔をして、声を怒りか涙か分からないが震わせて。最後は視線を少しずらして遣り切れない顔で、こっちまでまた泣きそうになった。
「オレは、オレは認めたくなかったんスよ…、真田サンがオレにこんな事するなんて…認めたくなかった…」
認めたくない…、順平がずっと言っていたのは…快楽に溺れる自分じゃなくて…。そんな…
「オレの憧れてる真田サンはあんな無理やり…狂人みてぇに酷いことしねぇって…、真田サンは 」
否定していたのは 信じていたから…?
「も…ボクサーが平常心失っちゃ駄目でしょうが…」
「…っ、順平…っ、…悪かった…本当に…っすまなかった…っ」
「…許せないっスよ…簡単には。…ホントは殴っときたいとこなんスけど」
「何故殴らない…?俺は…殺されたっていいぐらいの事を…」
「…さっき言ったっしょ、拍子抜けって。今の真田サン…ちょっと触れただけで壊れそうな感じなんスもん…ま、さっきも違う意味で壊れてましたけど」
まだ順平を抱えている俺を引き離そうとはしないで、大きく溜息吐くと力を抜いて体重をかけてきた。
胸が鷲掴みされたように熱くなる。先程までは本当に殺してやりたいぐらい思っていたはずなのに。
俺を…受け止めてくれた…?
怒りを通り越して、ただの呆れなのかもしれない。同情なのかもしれない。よく分からないが、いつもの雰囲気に戻りつつある気がした。
「怖かったんスからね…マジで首絞められたときは死ぬかと思ったし…」
「…すまない」
「…、…まぁ…そんなに想っててくれたとは、知らなかったっス…」
「…ああ…お前は気持ち悪いかもしれないが…、俺は…」
「だからってアレはねぇけど…、妊娠したらどうしてくれんスか?」
「…、…男は妊娠しないが…」
「っは…、分かってますよ。普通に返さないで下さいよ…」
とりあえず訂正すると、苦笑いを俺に返してきた。こんなになってまで、俺に笑ってくれるのか…?
「…あーもー…、…脆すぎて見てられねぇ…」
「…すまない」
「…謝られたって、オレは…」
「…すまない…」
どうしたらいいか分からない。許せないと言いつつ…俺を受け入れつつあるような順平の態度。
そんな風に甘いと、優し過ぎると、勘違いしてしまうだろ…
「真田サン」
自分を呼ぶ声は心地良い温かさで、いつものように優しい瞳。頬は自分のせいで少し腫れているが。
「…?」
「…帰りましょ」
「っ…え…、…あ、ああ…」
そう言うと驚いた拍子に抱く力は抜けていて、ゆっくりと離れた順平はよろよろと立ち上がって、服を直し始めた。
理解出来ない。こんな風に、人間は受け入れてくれるものなのか。許せない人間に、手を差し出してくれるのか。
「真田サン…仲を深めるのには段階っていうものがあるんスよ?」
「…ああ…」
「まずは一緒に帰る。これ常識」
「…?、…そう、なのか」
「そうっスよ。…じゃ、一緒に帰りましょ」
真っ直ぐに眼を見て、言われる。
どういうことだ…?それは、どういうことなんだ。また…また、お前に期待してしまうぞ…?
あんなことをしたのに…何故だ?
「帰らないんスか?」
「順平…俺、は…お前に酷いことをしたのに…その…」
「自覚があんならそれ相応の対応して下さい。大体、恨むことなんて幾らでも出来る。でもそれじゃ…何にもなんねぇ」
「…、…」
「とりあえず身体痛いんで負んぶして帰ってもらうっスからね」
「…順平…」
俺の好きな笑顔で。
「一杯後悔して下さい。ンで、一杯優しくして下さい」
思いきり抱きしめた。自分よりも少し小さい順平を全てで包み込むように。
「っ順平…!、…何だってしてやる…何だって…」
欲しいのなら命だってやる。そんな…優し過ぎるお前のためなら。
「真田サン…苦しいんスけど…」
「っ…すまない…」
「謝ってばっか…そんなのもういらないっスから、早く帰りましょ」
「…、…順平…」
「はい?」
「……好き、だ…」
「! …やっと、普通に言えましたね」
順平は返事はしてはくれなかったが、微かに微笑んだ。それから背中に回って首に手を回してきた。あの時、あれ程頑なに拒んだ手が。
膝に手を回し、順平を担いで思う。
こいつの優しさにつけ込んでしまったのかと。哀れみといった類の同情の思いで俺に接してくれているのかと。
それでも…
それでも俺は離さない。同情で傍にいたとしても、必ず順平の意思で傍にいたいと思わせるようにしてみせる。こんなに愛らしい順平に俺は全てを尽くそう。
二度と傷つけたりしない。誰からも傷付けさせない。
こんなに好きで、すまない。
fin. 2006/11/03
2008/05/10 タイトル・文章修正