手
真っ白な場所だった。何処なのかも分からない、一面の白。それでも何故かそれを不思議に思うことや恐怖なんていう感情は抱かずに、地面に足が付いているのかいないのかも分からないが立ち尽くしていた。
それから暫くして、目の前が薄っすらと霞んだ。目を凝らすとその影は人の形をしていて、どんどんと大きさを増していく。こちらに近付いてきている、そう確認した頃には顔の輪郭まで見えた。ただ、何故か顔の部分は近付いてきても薄っすらとぼやけていてはっきりとしない。
その人物は目の前にまで来た。こんなに近くに居るのに顔がまだボヤけて見える。いや、正確には自分が顔をはっきりと見ようとしていないのかもしれない。何故だろうか、分からないがそのまま顔を真正面に向けていた。目線は前に立っている人物の腹部あたりだ。自分が小さいのか、相手が大きいのか、それでも不思議ではなかった。ただ、ずっと見ていた。
「順平」
そう自分を呼ぶ声に反応して顔を上げた。その人物と目線が交わる前に大きな掌が迫っていて、やがてその手は頭の上に乗せられた。大きくて柔らかな掌は優しく頭上を滑り、温かな人肌を持って撫でられる。
それが胸を弾けさせるほどに嬉しくて、顔を綻ばせて相手を見た。いや、しっかりと見ようと思った。
途端、
口元はへの字に折れ曲がり、優しかった掌が頭を鷲掴んだ。
痛い、痛い。そう声を漏らすことが何故だか酷く癪で、歯を食い縛った。
乱暴に頭を掴んでいる腕の先。ようやくはっきりと見れた顔は
「 、……」
瞼を押し上げると、見慣れた寮の部屋の天井が目に映った。と、同時に勝手に息が漏れた。吐く息は震えていて、気分が酷く悪い。
悪い夢だ。
意識が回復してくると、服が身体に張り付いているのに気付いて更に不快感が込み上げた。汗を掻いたかと、ぼんやりと思いながら顔を横向けると椅子に腰掛けて本を読む真田がいた。そこでようやく、ここは真田の部屋だという認識が追いついてくる。そういえば、自分の部屋の配管工事をしている間、勝手に部屋に居座っていたんだった。
暫くパラパラとページを捲る音に耳を傾けながら、この底まで落ちた気分を回復させていた。いつの間に人のベッドで眠っていたかは知らないが、真田は自分が起きたことにも気付かずに本に見入っていた。集中力が高く持続するタイプらしく、一定のリズムで捲る音を刻んでいく。この集中力がボクシングや勉学にも活かされているんだろう、そう思うと同時にだからこそ行き過ぎたような奇行があるのかとも納得してしまった。
思考を巡らせているうちに先程よりかは多少気分がマシになった。夢は記憶を整理させているものらしいが、消してくれれば良い記憶だってある。暗記ものは全く記憶しないところが自分の夢のくせに腹立たしい。
悪夢、と呼べるのだろうか。父親や家庭の類の夢は寮に移ってから何度か見ている。その度に酷く最低な気分になり、物にあたることすらあった。
ただ吐き気がするほどに嫌だ。大嫌いで、それでも憎めない弱い父親が。こんな夢を見てしまう自分が。
どうすることも出来なかったあの時。今はこうして離れられたのだが、結局は何の解決にもなっていない。そういう心の靄が夢に出てきてしまうのだろうか。それでも今日はいつもより気分の回復が早い。この先輩が傍に居るからだろうか。
暗かったあの場所、それは家でもあるし、あのコンビニでもある。そこから抜け出させてくれたのは結果的に真田だ。今では天然と可愛い言葉で済ましてしまっていいのか分からないほどの奇行や発言をするのにもだいぶ慣れ、憧れから正直言って先輩という線も緩んだ安心出来る存在へとなっている。
…でも。でも、あの男も元はそうだった。堕ちる前は優しく、時には叱ってくれる一般的な父親だった。大きな手は自分を愛情で包んでくれていたものだった。
あの手が、凶器になるなんて誰が思うだろうか。
「順平」
不意に呼ばれて異常なほど肩を揺らした。顔を上げれば真田がベッドの前に立って見下ろしていて、自分の顔を覗きこんでいた。居るのは分かっていたはずなのに、こんなに傍に来て名前を呼ばれるまで気付かなかったなんて、自分もある意味無駄な集中力があるようだ。
「具合が優れないのか…?顔が白い」
革の質感が頬に触れる。それにまたビクリと反応してしまい、思わずその手を払った。目の前の真田はほんの少しだけ目を見開いたが、整った顔を僅かに近付けて順平?と探るように名を呼んだ。
その黒革に包まれた手は凶器とまで言わなくとも、大きな武器だ。ボクシングをしているところはチラリとしか見たことが無い。だがその時の姿は美しくて野生的で、そして迷い無く真っ直ぐに突き出される拳は人間の皮膚さえも突き破ってしまうような錯覚に陥った。勿論同じリングに立つことも無ければ、それが自分に向けられることはありえないと流せばいいのだが、今の自分の立場上それが出来ないのが問題だ。
タルタロス。討伐というスポーツの枠から出たところでは、自分の真横でシャドウを拳ひとつで殴り倒していたわけで。一線を引かれた場所から傍観しただけの視覚のみの優雅さとは全く違い、同じリングに上がった時の五感全てを研ぎ澄ませて肉と血をぶつける戦いは、存外綺麗なものじゃない。血塗れた人間もある意味コントラスト的には映えるかもしれないが、荒い息遣いに珠の汗を流し、時には不敵な笑みを浮かべる獣が触れられる距離にいるのは、少なからず空想論のヒーローごっこを期待していた自分にとっては恐怖と呼べる感情を起こさせたことは否定出来ない。
「真田サン…、…」
酷く弱々しい声が吐き出されて自分でも驚いた。きっと縋るような眼をしてしまっているに違いなかったが、実際幾つもの感情を放り込まれてミキサーにかけられたこの中身をどうにかして欲しかった。
真田は声に反応して、目線をじっくりと合わせてきたかと思うと手を再度伸ばした。まず指が頬に触れ、次に手の甲で軽く撫でられて、様子を窺いながらゆっくりと掌を皮膚に張り付かせた。革で覆われているせいで少し冷たかった感触も、徐々にじんわりと人の体温が僅かに伝導してきて思わず頬を擦り付けた。犬のような女々しさだとしてもそんなもの知ったことじゃない。
力の匙加減で人を壊せる手なのに、こんなにも優しい。
それが怖くもあり、蕩けるほど 甘く、特別だった。
「…夢を…」
「ん?」
「夢、見たんスよ。凄ぇ…嫌な、夢」
「……ん」
真田は僅かに頷くと、自身もベッドに腰をかけた。頬を包む手を頭に移動させ、なだめる様に数回軽く叩かれた。顔を目線だけで追って僅かに垣間見るが、特に表情も変えず射抜かれてしまうほど見つめてくるために、慌てて下を向いた。無垢な表情の中に潜む凶暴性を無理に疑う自分が恥ずかしく、汚く思えた。
「…今は夢から覚めてる。怖いことはもう無い」
黙り込んでしまうと、小さいがハッキリと意思を持った声が届く。
真田なりに自分の様子を汲み取ってくれているであろうその声に僅かに心が落ち着く。けれど元凶である元は何ら変わらずにいて、心に成った闇は除かれることは無い。頭を撫でる柔らかな掌が、何時硬い拳になるか分からない。
ああ、どうも今日はセンチメンタルな気分なようで、マイナス思考にばかり傾いてしまう。いつもなら頭を撫でられたとしたら、この歳で恥ずかしいと思うのと、単純に構われて嬉しいと思うだろうに。
きっと単純に殴られることが恐怖なんじゃない。いや勿論痛いことは御免被るが、本当に怖いことは絶対的な力を持って自分に注がれるはずだった愛を断たれること。その相手を失望すること。
自分は特に抜け出た部分も無く、普通の人間で普通の人生で。世間を騒がすニュースも被害も、テレビの箱の中でしか感じれなくて、親が子を感情のままに殴り倒すなんて馬鹿げたことだと思っていた。ずっとずっと数年前までは普通に。
ドメスティック・バイオレンス、略してDV。訳して家庭内暴力。無駄に英語や小難しい日本語にする必要なんか無い。こう、八つ当たりとか逃避とか病気とかブチ切れ侍とかで十分だ。
酒は飲んでも飲まれるな、という格言は伊達じゃない。酒に依存して中毒になって現実逃避した挙句、鬱憤を身近な人間、家族で晴らす。躾でもないただの怒りは困惑と憎悪しか生み出さない。尤も自分は生まれてからずっと暴力を受けていたわけじゃない。ほんの数年前からで、既に人格形成はほぼ出来上がっていたから心が酷く屈折することもなかった。ただ、殴られながら嫌悪を抱きつつ同情した。自分よりも大きく体格も良かった父親が酷く哀れで可哀想だと切に思った。
まだ浅い人生だが自分の人生は本当に普通で、でもそれは幸せだった。きっと歓迎されて生まれてきて、愛情を惜しみなく注がれた。元々父親も仕事は人並みに忙しそうだったが休みの日はキャッチボールの相手をよくしてくれた。ただ、投資にさえ失敗していなければ今でもそれなりに仲良くやっていただろう。酒に逃げて自分に当り散らして暴力を受けることもなかった。父親も普通の人間だった。情けなく弱い、普通の人間だった。だから自分は不幸なんかじゃない。
だが、やはり途中で不意に断たれた愛情は喉を、心を乾かせた。楽な方に逃げつつも、ストレスを溜め込むようになって、溢れると爆発して、それすらも自身のアピールかもしれなくて。特別視されることを自分でも分からないほど強く望んで。
酷く愛に飢えた。だんだん毎日が退屈になってきて、考えては棄てる日が続いた。そんなときに現れた。
「 …大丈夫か?」
手を差し出してきたのはまるで銀髪のナイト様。本人は討伐の助けになるかもしれないと軽い気持ちで拾ったのかもしれないが、結果的には白馬に乗せられお城に連れ帰られるどこぞのお姫様のようなハッピーエンドになったわけだ。
本当のことを言うと今は、正直少し後悔している。目の前に現れるから、手を取ってしまったから、関係が深くなるにつれて、怖くなる。他の人間以上に仲を深めれば、余計に。
でも、もう遅い。気付けば完全に懐いていた。自分でも馬鹿だと思う。だけど、この人にだって責任があるだろう。無いとは言わせない。言われたらどうしたらいいのか分からない。
恐怖にも上回るかもしれないこの温もりは、何なんだ。
「…!順平?」
まるで肘置きのようにずっと頭に置かれていた手を掴み、ピッタリと皮膚に纏わり付いている革手袋を多少強引に脱がそうと引っ張る。突然のことに驚いたのか、真田は手を引こうとしたが、それでも腕ごと掴みあげて強く引っ張り脱がせた。
果実の皮がつるんと剥けるように革手袋が外れ、自分より大きく筋張った男の手の皮膚が露になる。日光を常に遮断していたその手は透き通るほど白く、それに似合わずボクシングのためか節々がごつごつとしている。しかし恐らく一般的なボクサーよりかは細く長い指だろう。
普段は黒革を纏わせて誰の目にもほとんど触れさせていないこの手は、自分にとってとても貴重で、神秘的にさえ思えた。
「…真田サンが悪い…」
「?…何が…」
「真田サンが…、… 」
当然ながら困惑した声が降ってくる。でももっと困惑しているのはこっちだ。捕らえたその手をより強く握った。白い手に、自分の指が重なった部分だけがほんのりと赤くなる。
人との距離感は自分でも上手いほうだと自負していた。それなのに勝手に線を越えてくるから。この人に裏切られたら多分壊れてしまうから。自分勝手なんて知らない。誰かのせいにしないとあまりにも自分で自分が気持ち悪い。
「…この手。素手でオレ以外の奴には触らないで下さい」
「?…何のことを言ってるんだ」
とりあえずこの特別な手は自分だけのもの。他の誰かにこの指で触れようものなら嫉妬してしまうのが予想できてしまう。この手に裏切られるときはいっそこの手に殺されたい。
大きな白い手に一瞬父親が重なった。きっとこの美しい手に恐怖心なんか無くなれば、父親とも向き合えるんじゃないか、そんな気がした。
「順平…まだ寝惚けているのか?」
「…そうかもしれないっスね」
証か忠誠か。戦慄く唇を握る白い手に寄せた。
立場的に姫がナイトにするのは逆だけど。いや、姫でもナイトでもないから別にいいか。
触れるか触れないか程度に手の甲にキスを落とした。
早く悪夢から覚まさせて欲しいと願いを込めて。
fin. 2008/04/24